2018年6月21日木曜日

「フランス語圏の文学・芸術における女性の表象研究会」第4回研究会報告

「フランス語圏の文学・芸術における女性の表象研究会」 本会は、
下記の通り、第4回研究会(通算52回)を開催しました。

 日時 2018年5月5日 10時〜12時 場所東京ウイメンズオフィス
 司会 吉川佳英子
(I) 10時〜10時50分   
フランス19世紀および江戸時代の「性の表象」日仏比較西尾治子   
西尾は来年の国際女性デーのテーマと目されるLGBTに関する発表をするようにとの要請を受け、招聘講演者GabrielleHoubre氏の3本のトランスジェンダーに関する論文を参考に、江戸時代と近世フランスにおけるセクシュアルマイノリティの比較を中心テーマに据え「ジェンダーアイデンティティ・トラブル」(性同一性・性自認の問題)に直面した人々の実例を示し、ジェンダーの視点からの考察を試みた。まず、天保時代にセクハラゆえに断髪し男装して生きた「竹次郎事たけ」に着目。前科者を示す入れ墨を腕に彫られ「遠島」の重刑を言い渡された「たけ」は、フルタイム男装者を希求したトランスジェンダー(性の越境行為の実践者)であると論じた。FtM(身体の性別が女性、自分自身が感じる自分の性別が男性)の彼女にとって、男の性を装うことは貧困を逃れるための自己救済策であると同時に自己存在に根ざした究極の自己表現、自己解放でもあった。江戸時代には、祭礼、芸能、小説などに華麗な異性装が登場し両性愛が謳歌される一方、性差を越境する貧しい人々や女性たちには異性装禁止法が科せられたのである。続く近世フランスの異性装者の節では、女装聖職者ショワジー、女騎士デオン士爵、ヴェルサイユ宮殿の女装者H・ジェニーの事例を検討。さらに男を装い女性と結婚までしたジャンと粉屋のフランソワについて、彼らに異性装の幸せな人生を可能にしたフランス特有の理由を考察した。また、ジョルジュ・サンドの異性装者を扱った複数のフィクションと井原西鶴の主要作品を俯瞰し、江戸および19世紀フランスの異性装者たちにみられる共通点と相違点を明らかにした。最後に、フーコーの引用で知られるHerculine Barbin事件およびウーブル氏が言及する8件の臨床例に関し、19世紀フランスの医学界・法曹界の男性医師や弁護士等の性規範概念が、性器異常で産まれてきた新生児の性の決定にいかに大きな弊害をもたらしたかを考察した後、現代のLGBT問題とフェミニズムの展望について触れ、これを結論とした。
(II)11時〜11時50分 フランス映画におけるマリー・アントワネット表象の一例―『マリー・アントワネットに別れをつげて Les adieux à la reine』2012 押田千明 押田氏は、7月の会員研究発表会で、フランス、日本、アメリカの映画においてマリー・アントワネットがどのように表象されているかを比較し論じられる予定で、今回は、「王制を打倒し、国王夫妻をギロチンにかけた歴史の上に成り立つ共和国フランスにおいては、日本やアメリカのようにマリー・アントワネットを「悲劇のプリンセス」として表象する傾向にない」という仮説のもと、フランス映画におけるマリー・アントワネット表象の一例として、『マリー・アントワネットに別れをつげて』(原作:シャンタル・トマ、監督ブノワ・ジャコー、2012、仏西合作、フェミナ賞受賞作品)に的を絞って論じられた。映画の場面を実際に映写しつつ、「世界で一番残酷な片思い」を描いたといわれるこの映画は、宮殿に仕える使用人であり、王妃に心酔する朗読係の少女シドニーの視点で描かれていること、王妃とポリニャック夫人との同性愛を描いたレズビアン映画であることなどが作品の特徴、としてあげられると押田氏は解説された。また、 映画批評は、王妃が使用人シドニーに犠牲を強いるような女であり、しかも露骨な性愛場面を描写しているとする批判しているが、押田氏はこうした事実もまた、本発表の「悲劇のプリンセス」として描いた作品ではないという仮説に適うものであり、他のマリー・アントワネットを取り上げた映画作品とは一線を画す独創的な作品であるとする結論を導かれた。   発表後の質疑応答は制限時間一杯続けられ、後日、「目から鱗でした」「日頃のご精進に敬意を表します」等々の丁寧なご感想をお寄せ頂きました。国際女性デーに向け、私たちは、今後、数回の研究会開催を予定しております。